Dogwoodの池上日記

地元大田区池上・蒲田と軽井沢・信濃追分を愛するDogwoodの日々徒然日記。

5年前の今日(昨日)のこと 後編

夜中午前0時を過ぎて到着した横浜駅の構内は、まるで朝のラッシュ時のような人の多さでした。中には、私立の制服を着た小学生の子どもたちが、不安そうな顔で立ちすくんでいるのを見かけました。地震の時間が時間だったので、下校中に帰れなくなってしまったのでしょうか。可哀想ですが、私もどうすることも出来ません。ただ、早く親が迎えに来てくれと、無事を祈るだけ。でも逆に、これだけ人がいれば、夜中でもここでは危険では無いだろう。ただ、頭にきたのは、JR改札の電光表示が、ずーっと、「x時x分 xx行」と出ているため、勘違いした人が、どんどんホームに階段で上がっては、落胆して降りてくる。すでにJRの改札は閉じられ、駅員もおらず、とっくに運行終了状態になっていた。掲示板の電源くらい落とすか、運行終了したこと位、表示しとけよ、もうボケ、カス、クソJRめ!

と、心の中で叫んでいました。そうこうしていると、周りの人たちは、連絡通路の両側に、ダンボールを敷いて、休む準備を始めていました。これは急がないと場所が無くなる!と思いながら、自分も場所を探して歩いていると、おっ、ラッキー!空いてるじゃん、でもなんか変だな、、パッとその隣を見た瞬間、、、そこには、「ホンモノ」のホームレスのオッちゃんたちが、ダンボール敷いて、何事も無かったように熟睡してらっしゃるではないですか、、。うーん、どうしようかな、その場所はそそくさ諦め、ラジオで横浜地区の避難所の混雑状況を伝えているのを聴いて、鶴見あたりまで歩けば、何とか泊まれる目処がつく。今からなら、1時位には着くだろう。そして、歩き始める準備をしていると、駅の構内放送で、「東横線がもうすぐ運行再開する」という放送が流れたので、急いで地下の東急の改札口に走りました。そこでも入場規制がされる程、人で溢れかえっていて、怒号が飛び交っていましたが、押されtつつ何とか電車に乗れました。それは、まるで昔乗った、朝のラッシュの山手線のような状態でしたが、無事、多摩川を渡ることができました。窓の外には、多摩川の橋を逆方向に歩く長い人の列が、街灯に照らされて、不安を煽ります。電車に乗っていたサラリーマンの若者が、テレビで流れていた生々しい映像のことを、興奮して話しているのを聞き、更に不安な気持ちになったのを覚えています。そして多摩川駅で降りて、蒲田経由で池上駅に着いたのは、もう夜中2時をとうに過ぎていました。それでも、こうして電車で湘南台から池上まで帰れたのは、奇跡に近かったと思います。ようやく家に帰ると、帰宅できなかった息子の同級生が泊っていました。三島の方だと言ってたから、帰宅は絶対無理だったでしょう。

こうして今思うと、この時一番役に立ったのは、通勤で毎朝聞いている、携帯用の小型ラジオでした。電車、バス、各道路、近場の避難場所などの情報を逐一放送していたのが、とてもありがたかったです。今やスマホでもラジオは聴けますが、ラジオの電池の持ちとは比べものになりません。もし、首都圏が震源地震があったら、こうはいきませんが、Dogwoodは、ラジオだけは替えの電池と一緒に常にカバンに携帯しています。5年前の3月11日は、本当に大変な1日でしたが、神経が高ぶって緊張していたのか、不思議と疲れはありませんでした。翌日の惨状をテレビで観たときに、ドッと疲れが襲ってきたのを今でも、ハッキリと覚えています。東北地方で被災された方々の体験とは比べようも無いですが、同じ日本人として、この日を忘れてはいけないと強く思いました。

 

ソニーの小型ラジオ ICF-T510V 1999年製造。いろいろ自分で修理して、今もほぼ毎日使い続けてます。頼れる相棒です。

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