本門寺の層塔シリーズ(?)第2段は、前田利家 側室の層塔を紹介します。こちらも本堂と五重塔の間の道沿いにあり、加藤清正 室の層塔よりは分かりやすい場所にある、大田区指定文化財のひとつです。
前田利家と言えば、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。豊臣政権の五大老の一人。「槍の又左衛門」の異名を持つ、槍の名手で、織田信長に仕え、本能寺の変以後は柴田勝家、羽柴秀吉に臣従した。加賀藩百万石の礎を築いたお方。その加賀藩三代藩主、前田利常の母である、寿福院の逆修供養塔で、元和8年(1622年)に建てられたものなのだとか。元は11層だったのが、現在は5層になっています。
説明板も立っているので、場所は直ぐ分かると思います。
加賀藩三代藩主、前田利常の母である寿福院は、豊臣秀吉没後、徳川家との微妙な臣従関係を解決するために江戸に差し出され、人質になったのだそう。
石塔上部の削れ具合が、長い歴史を感じます。
日樹の銘文も、近寄れば何とか読めます。天保4年は修復の記録なのだとか。
しかし、「正室」「側室」という言葉には時代を感じてピンときませんが、今でいう「正妻」と「愛人、妾」という関係とも違う気もしますが。
ちなみにWikipediaには、以下のように出ていました。
「江戸時代の皇室では、側室は出産後わが子を抱く間もなく、ただちに子と切り離され、本人の身分は低いままに置かれ(御役御免になって追放されることすらあった)、自由に我が子に会うことも出来なかった。
その一方、江戸時代の将軍家の大奥においてはまったく逆に、男子を出産した側室は「御部屋様」、女子出産の場合は「御腹様」として主人扱いとなった。また、参勤交代を義務付けられていた大名も国元に「御国御前」と称される側室を置いたが、お家騒動の原因になることもあって、基本的に側室には権力を持たせないようにしていた。」
うーん、ますますわからん。日本史は苦手だったしなぁ。
生前にこの様な逆修供養塔を建てるとは、どのような心境で、当時はどんな生活をしていたのか、想いは広がるばかりです。
お立ちより頂き、ありがとうございます。以下のブログ村に登録しています。良ろしかったらポチっとお願いします。