お山(池上本門寺)の周辺には、当然ですが日蓮宗の檀信徒のお墓が沢山あります。また、力道山や大野伴睦、児玉誉士夫、幸田露伴など、著名人のお墓も数多く点在している事でも知られています。
お墓には江戸時代の元号が彫られた古い墓石も多く、学生時代から歴史が大の苦手だったDogwood にとって、お山のお墓は、歴史にチョッとだけ興味を持たせてくれるのです。
そんなある日、五重塔のすぐ近くに、ちょっと変わった形のお墓が並んでいるのに気が付きました。えっ?どこが変わってるって?
近寄ってみます。もう、おわかりでしょうか。
そう、亀の背中にお墓が。
全部で3基ありました。
左のお墓から「弘化」、「享保」、「正徳」の元号が読めます。この中では下の正徳(1711-1716)が最も古い元号かと思われます。
江戸時代のお墓にしては、遊び心があるというか、斬新ではないですか。
あっ、そう言えばこのお墓、以前「東京文化財ウィーク」にお山でもらった絵葉書に載ってなかったっけ?家に帰って探すと、出てきました。それがこれ。でも、、、
一応、お約束のアレをやらせて下さい。
字が小さくて読めないっ!
(って、健さんの by 孝太郎 しかも漢字多過ぎ!)
要約すると、江戸幕府に仕えた奥絵師、狩野家一族(四家)のお墓の一つのようです。江戸時代に、江戸幕府や大名に仕えた絵師のことを御用絵師と呼び、その御用絵師の中で、最も格式の高い職位を「奥絵師」と呼ぶのだとか。「奥絵師」でググってみると、こんな記載がありました。ハ◯キルーペを持ってない方はスッとばして下さい。
(お上手ね by 咲)
織田信長に仕えた狩野永徳は、統一政権の庇護を受けて狩野派繁栄の基礎を築いた。制度として整備されたのは、永徳の孫可能探幽が徳川家康に御目見得し、屋敷を拝領し扶持と知行地を与えられ、江戸幕府の絵師を務めたのが始まりである。以後江戸に本拠を定めた探幽の一族は4つに分立して、奥絵師に任ぜられ、これを狩野四家(中橋・鍛冶橋・木挽町・浜町)と称する。
うーん、余計わかんなくなっちゃった?
一言で言えば江戸幕府お抱えの芸術家(アーティスト)集団といったところでしょうか(違っていたらサーセン)
ところで、上の絵葉書の写真右下のお墓はどこに?亀さんの目、口、手(足?)がはっきりとわかる彫りの深い顔立ち。
ここです!五重塔からは少し離れていますが、説明板もひっそりと立っています。
色の褪せ方、劣化具合に歴史を感じます。
上のお墓は青い矢印の辺りです。
多宝塔の右側にひっそりと。
もし、池上本門寺にお越しの際は、こんな亀のお墓を見て歩いてみるのも楽しいかもしれません。
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